「伝えたい」を伝わる形に。 株式会社高速オフセット

新聞の歴史をひもとく

2022.06.17

 新聞という言葉が、英語のニュースペーパーの翻訳語として日本に登場したのは、19世紀の江戸時代末です。最「新」の「聞」いた話が載っている紙という意味ですね。世界では、9世紀に中国の唐で、出来事を記した随筆風の文書に「新聞」という名が付いたのが初出とされますが、現代の新聞のスタイルとなる日刊紙は、17世紀に欧州で生まれました

 新聞は、ニュースや情報を広く伝える定期刊行の印刷メディアです。前史となる印刷の世界史と合わせて、歴史をひもとくことにします。

◆アジアが先行した木版印刷

 メディアを「情報・文化を伝える媒体」ととらえると、文字とともに長い歴史があります。

 紀元前数千年というはるか昔、エジプト文明期にナイル川の水草の茎を使ったパピルス文書も、メディアだったと言えます。くさび形文字が入ったメソポタミアの粘土板、法典が彫られたバビロニアの石、甲骨文字が刻まれた中国の亀甲獣骨など、「媒体」になった物はさまざまで、羊皮紙や木や竹も世界で使われました。

 紀元2世紀に、後漢の蔡倫が製紙法を実用化してからは、紙が世界に広がり、7世紀末には、木に文字を彫った版で複製する「印刷」という技術が、中国で誕生します。

 ただし文字や文書は古来、政治や国家、宗教とのかかわりが大きく、行政の記録や官報のほか、キリスト教、仏教など宗教に関連するものが大部分を占めていました。文字は権威そのものだったのです。そして、複製する方法は、木版のほか石版なども使われましたが、書き写した写本が中心でした。

 木版印刷の技術は中国などアジアが先行し、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」には「中国では紙幣が印刷されている」と驚く記述があります。欧州で木版印刷はまだまだ広がっていませんでした。

 14世紀に入って欧州はルネサンス期に入り、商業活動や交易が活発化して自治都市が誕生、民間の商人や自由な個人が生まれていきます。商売のために「最新の時事情報を手に入れたい」「技術や教養を得たい」というニーズが高まり、印刷という大量複製の需要が生まれていきます。

◆活字を使った印刷の発明と印刷業の誕生

 この需要に応えるには、15世紀半ば、グーテンベルクがマインツ(今のドイツ)で活版印刷を発明するのを待つ必要がありました。鋳造した金属活字、乾きやすい油性インク、印刷機の三つを使った印刷技術です。

 活字自体は、グーテンベルクより前にアジアで発明されていました。粘土活字が宋で12世紀に、銅活字が高麗で13世紀に、鉛活字も李氏朝鮮で15世紀初めに誕生していましたが、漢字よりも文字数が少なく効率的なアルファベットで活字が発明されたことが、欧州で普及を呼び、印刷業の誕生に道を開くのです。

 最初は、聖書、免罪符という宗教関連や、暦・カレンダーなどの実用印刷に使われることが多かったのですが、技術がドイツ全域や隣国へ広がるとともに、文法書、医学書など学術関係のものも増え、一方で、政治の混乱や事件、災害、奇談などを取り上げた「かわら版」的な1枚刷りの印刷物が作られ、街頭で売られるようになります。ドイツではフルークブラット、フランスではカナール、英国ではニュースシートと呼ばれました。

◆世界最古の日刊紙はドイツ

 その「かわら版」の一つとして1502年、「ノイエ・ツァイトゥング」が、今のドイツで誕生します。ドイツ語で「新しいニュース」という意味で、定期刊行ではありませんでしたが、タイトルも含めて「新聞の源流」と言えます。16世紀は大航海時代が始まり、グローバル化が進んでいきます。

 日刊の新聞の登場は17世紀でした。ライプチヒ(今のドイツ)で1650年に創刊された「アインコメンデ・ツァイトゥンゲン」で、ドイツ語で「新着ニュース」の意味。4ページ建てで、世界最古の日刊紙とされます。

 ドイツやフランスから活版印刷技術が伝わった英国の17世紀は、王政による絶対主義から市民社会へと変わっていく混乱期でした。内政問題が大きな関心事となり、厳しい出版規制が行われる中で、週数回発行の新聞が、規制のすき間を縫うように次々と生まれます。そして、欧州最初の市民革命が終わって18世紀に入った1702年、英国初の日刊紙「デイリー・クーラント」が誕生します。

◆大衆消費社会の誕生

 18世紀の欧州は、英国発で産業革命が進行し、多様な職業が生まれ、市民が成熟し、情報に対する需要がさらに拡大していきます。読者を広げるため、政治経済だけでなく、芸能、スポーツ、文芸と記事の幅を広げ、ゴシップを取り上げる新聞も出るようになりました。大衆による情報消費社会が始まったのです。

 その中で高級紙も誕生します。英国で1785年に元石炭商が創刊した「デイリー・ユニバーサル・レジスター」(1788年に「タイムズ」と改称)は、「新聞は時代の記録者であるべきだ」と宣言してセンセーショナリズムとの決別をうたいます。アメリカ独立宣言やフランス革命のころです。

 この流れでは、19世紀に入って1821年に英国で「ガーディアン」、1826年にフランスで「フィガロ」、1851年には大西洋を隔てた米国で「ニューヨーク・タイムズ」が創刊され、現代につながるジャーナリズムの軸足が生まれます。

 一方で、大衆消費社会の誕生に伴い、ゴシップを取り上げる安価な大衆紙も増えていきます。米国では1835年、1セント(1ペニー)の大衆紙「ヘラルド」などが誕生、ペニーペーパーと呼ばれました。英国の大衆紙「デイリー・メール」は、半ペンスで部数を伸ばし100万部近くを発行しました。米国では、読者獲得競争がセンセーショナルな報道を引き起こし「イエロー・ペーパー」という言葉も生まれます。しかし部数の増大は、新聞が広告メディアとなり、広告掲載で新聞社が収入を得る道を開きました。

◆日本の情報メディアの元祖「かわら版」

 ここまできて、日本での歴史をみることにしましょう。

 日本でも、文字や文書は、仏教という宗教とのかかわりが大きく、複製は、書き写した写本が中心でしたが、欧州よりも早く7世紀に中国から伝わった木版印刷の技術が、徐々に進化していきます。

 日本で、欧州のような情報メディアが生まれるのは、江戸時代の17世紀です。戦乱の世が終わって太平の世となり、都市が生まれ、商人、町人による消費社会が誕生したからです。もちろん封建社会であり、出版は統制されましたが、芝居や相撲など娯楽の誕生とともに、情報が商売になり始めるのです。事件や心中、うわさ話、奇談などを木版で片面1枚刷りした印刷物「読売」が、街頭で読み上げながら売り歩かれたり、辻売りされたりするようになります。1部3文~5文(36円~60円くらい)で、ワンコイン感覚でしょうか。

 幕末の19世紀には「かわら版」という呼び名が生まれ、お上の規制をかいくぐる表現に工夫した政治批判や社会風刺の題材もあり、市中の人気を呼びます。1853年のペリー浦賀来航も、かわら版で広く伝わりました。

 「時事の報道」「権力から一歩離れての論評」という点では、日本のジャーナリズムの起源と言え、新聞が登場する素地が整ってきたところに、開国という大転機が来て、日本の新聞の歴史が一気に動き出します。

◆開国が生んだ日本の新聞

 米国、オランダ、英国、フランス、ロシアと修好通商条約が結ばれ、長かった鎖国が終わり、1859年に貿易が始まります。横浜・長崎に来た外国商人は、日本事情や船舶の出入り情報を必要とし、民間発行の実用紙が次々と生まれます。その中で、英国商人アルバート・ハンサードが1861年5月15日、長崎で週2回発行を始めた「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」が、日本初の定期刊行の新聞となります。

 日本最古の新聞は、外国人が外国人のために作った英字新聞だったのです。

 初の日本語の新聞は、それまで鎖国政策をとっていた幕府が出したものでした。1862年1月、オランダ総督府がジャワ(インドネシア)で出していた情報紙を、幕府の海外研究機関「蕃所調所」が日本語に訳した「官板バタビア新聞」でした。幕府は鎖国期にも、オランダ情報を翻訳した「阿蘭陀風説書」という海外情報冊子を出し続けてきた流れと言えます。

 民間による日本語の新聞発行の始まりは、1864年の「海外新聞」で、月2回手書きで出され、翌年から木版印刷になりました。日本では開国を機に、世界の常識だった商業情報紙の発行が一気に始まったのです。

◆日刊紙の誕生と高まる報道需要

 一方で、1867年の大政奉還や明治維新に至る内戦、新政府の体制は、政治ニュース、時事ニュースの需要を呼び起こします。全国各地での新聞創刊は必然で、1870年、横浜商人が出資し、日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」が誕生します。1部の価格は銀1匁(今の1,250円くらい)。木活字を使った創刊号には、米国船の入港予定のほか火事も載りました。

 今の全国紙の最初としては、1872年2月21日、「東京日日新聞(後の毎日新聞)」が木版2色刷りで創刊されます(2号から活版印刷)。創刊号には長野県での殺人事件の記事も載り、価格は1部140文(今の1,680円くらい)。そばが1杯20文だったころなので相当高価でした。

 「東京日日新聞」が漢文調で、政論を重視し、知識人向けの「大新聞(おおしんぶん)」と呼ばれたのに対し、挿絵やふりがな付きの大衆向け「小新聞(こしんぶん)」として1874年、「読売新聞」が創刊されます。大阪では、1876年に「大阪日報」(1888年に「大阪毎日新聞」、後の毎日新聞)、1879年には「朝日新聞」が誕生します。

 自由民権運動、日清・日露戦争、大正デモクラシーと政治課題が続く中で新聞は部数を伸ばし、大正時代には発行100万部を超える新聞が登場して新聞産業が成立します。日清戦争では、戦況の速報競争から号外の発行も始まります。新聞社がスポーツ大会や文化事業も主催し、文化振興やエンターテインメントの要素も含みながら、情報や知識を広く伝えて情報文化を担い、世論に影響を与える力を持っていきます。

◆表現の自由を求め続けた歴史

 「自由に論評する」新聞は、世界中どの国でも、いつの時代でも、時の権力の統制を受け続けました。日本でも、江戸期に幕府批判は重罪で、憲法や国会制定を求めた自由民権運動に対し明治政府は、新聞法など言論弾圧の法令で対抗。自由や平等を求める「大正デモクラシー」の時には治安維持法が作られました。

 「表現の自由」「報道の自由」を求めて闘い続けてきた新聞の公益性に曇りがない一方、日本の新聞は日清、日露などの戦争報道で部数を伸ばしたことは確かですし、統制を受けたとはいえ、太平洋戦争で実像や反戦を伝えきれませんでした。現代の新聞は、その過去を重く受け止めたうえで、フェイクニュースとSNSの時代にあって、ジャーナリズムの正しい在り方を体現する、という重い社会的責任を負っていると言えます。

 当社高速オフセットは、終戦直後の1946年、毎日新聞大阪本社の分工場を母体に創設された「大阪高速印刷」が前身です。当時、大阪・堂島にあった毎日新聞大阪本社や分工場は空襲を免れたため、設備を利用し新たな投資もして戦後の文化復興の一端を担おう、と設立されたのです。戦地から引き揚げてくる社員の就職先ともなりました。

 週刊誌「サンデー毎日」「エコノミスト」などの印刷からスタートし、高度成長期は、加入電話の急速な普及に伴う電話帳の印刷を主力としました。輪転機による新聞印刷は1962年から開始。1969年からは毎日新聞の印刷を始め、1986年高速オフセット設立後も引き続き、高い技術力で情報文化の一翼を担っています。

【参考文献】

・メディアとコミュニケーションの文化史(伊藤明己著、社会思想社)
・日本印刷文化史(印刷博物館編、講談社)
・日本メディア史年表(土屋礼子編、吉川弘文館)
・毎日の3世紀(毎日新聞社)

【おまけ雑学①】世界最古の現存印刷物は日本に

 現存し、制作年が判明している世界最古の印刷物は、実は日本の「百万塔陀羅尼」です。奈良時代の764年から770年にかけ、称徳天皇(聖武天皇の娘)の命で印刷された、と続日本記に記されています。

 高さ約13cmの小さな木製の三重塔を100万基作って、災害や兵乱の消滅を願う経典「陀羅尼経」を刷った紙を中に収めているため、その名が付いています。主要寺院に配られたうち、法隆寺に4万基以上が現存し、重要文化財になっています。

気象予報士の資格を持つ役員

中国から伝わったばかりの木版技術を使い、松煙を使って麻紙に刷られたとみられます。100万という印刷部数の多さには驚くばかりです。

【おまけ雑学②】徳川家康と活字

 日本の印刷で、木版印刷は欧州より早く始まったのですが、活字を使った活版印刷へとはなかなか進みませんでした。漢字は文字数や画数が多いことがネックだったと思われます。江戸時代の終わりまで、写本か木版印刷が主流のままでした。しかし、実は徳川家康が、日本初の銅活字を作っていたことは、余り知られていない歴史エピソードです。

 きっかけは豊臣秀吉の朝鮮出兵でした。当時の李氏朝鮮では、グーテンベルクより早く、金属活字が発明されていました。秀吉は、出兵先から銅活字を持ち帰り、時の後陽成天皇に献上します。目の付け所は鋭いです。天皇は参考にして木製の活字を作らせ、本を印刷します。これに本好きの家康が刺激を受け、自身も木活字を作らせて1600年、中国の政治書「貞観政要」などを出版します。

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1600年とは天下分け目の「関ケ原の戦い」の年であり、出版どころではなかったはずの状況下で本を作った家康のスケールの大きさに驚きます。

 家康は1606年、天皇から秀吉献上の銅活字を借り、今度は銅活字を約9万字鋳造させ、豊臣家を滅ぼす大阪冬の陣、夏の陣を戦いながら、約10年にわたり、所蔵する写本を活版印刷化して次々刊行します。この活字は「駿河版銅活字」と呼ばれて現存し、重要文化財になっています。しかし残念ながら、この銅活字を使った活版印刷は、その後の幕府や社会には広がりませんでした。

 日本の活字印刷の歴史では、家康より少し早い時期の「キリシタン版」を忘れてはなりません。イエズス会の宣教師や技術者が1590年、欧州で作った活字と印刷機を長崎県島原に持ち込み、日本で布教するための書物をカタカナなどで印刷しました。西洋活版技術を使った日本初の印刷という歴史的なものでしたが、禁教政策で間もなく禁止され、宣教師や技術者、印刷機も海外に追放されました。

【おまけ雑学③】技術の発展と活版印刷の終わり

 新聞の歴史は、印刷機の改良による高速印刷化の歴史でもありました。グーテンベルクが発明した活版印刷機は、ワイン用のブドウ絞り機を改造したもので、平らな紙を1枚ずつセットして印刷する平版印刷機でした。高速化を可能にしたのは、グーテンベルクから約400年後の1846年、英国でホー式と呼ばれた輪転機の発明です。それまで平らだった版を湾曲させて筒に巻き付け、筒が回転して連続印刷する仕組みです。

 ロール状の巻取紙から紙を連続供給出来るようにした輪転機の発明が、さらに高速化をもたらし、1890年以降、日本の新聞社が海外から輸入し稼働させたこの巻取紙方式輪転機の紙の規格が、今の日本の新聞のサイズとなったとされます。写真を版にする技術も進み、明治後半からは写真が掲載されるようになります。

 また、版から紙に直接印刷するのではなく、版からいったん別のローラーにインクを転写し、そのローラーが紙にインクを転写するという「オフセット印刷」方式が1901年に米国で発明され、印面の質の良さから1954年に実用化され、今の新聞印刷の主流となります。

 一方で、活字を代替する技術も進みます。高度成長期の1967年には、フィルムと印画紙を使った「写真植字」が新聞に導入されます。文字の大きさを自由に拡大でき、編集の幅が広がる技術革新でした。

 そしてついに1972年、コンピューターによる新聞組版が日本で始まります。文字も写真もデジタルデータ化して編集し、版にする技術で、活字は全く不要となります。日本経済新聞が世界で初めて実用化し、CTS(コンピュータライズド・タイプセッティング・システム)と呼ばれ、各新聞も1980年代から追随していきます。新聞以外の印刷物も、パソコン端末のみで編集と版作成ができるDTP(デジタル・トゥ・プリント)の導入も進み、鋳造された活字は、21世紀の印刷工場からほぼ姿を消すことになりました。

 グーテンベルクの活版印刷は20世紀末、発明から約550年でその使命を終えたと言えます。

 一方、巻取紙方式オフセット輪転機を使った新聞印刷は、当社を含めて現在も続き、技術やカラー印刷などの品質が進化し続けています。印刷して1部ずつ折り畳み完成品にする能力は1時間あたり十数万部で、スピードと1部あたりのコストは、他の印刷方法を圧倒。新聞の半分の大きさのタブロイド版フリーペーパーなどの印刷も得意です。

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